真実の宗教D
井上善右衛門先生
<前回のつづきです。>その南無阿弥陀仏に値うことを、『御一代聞書』には『信心を得ると言うは南無阿弥陀仏の主(ぬし)になるなり』と申されています。よく『阿弥陀仏に頼る』という言葉が、何かに隷属する、その後方に縋(すが)りつかまってゆく、という印象を与えていることがあります。しかし、もしそうなら『南無阿弥陀仏の主(ぬし)になるなり』、そんことばが出てきようはないでありましょう。
キリスト教では、神にめされて天国に迎えられる。しかし、それは神のみもとにおいて神に仕える身となるのでありまして、南無阿弥陀仏の主になるとおっしゃっているのとは、大きく様子が違いが感じられます。
ですから、『南無弥陀仏の主となる』という事は、たとえば今まで私どもが、人間のささやかな心で作りなした小さな汚れた哀れな部屋に住んでおりましたものが、今、広大な仏様の家に移らせて頂いて、それを我が住み家とさせていただく身となった。即ちその家の住人ですから、そこの主でございましょうね。そういう身の上にこの私がおかれるということは、まことに広大な深い真理の教えだと思います。
その時に、私どもは生死を貫いて仏の光と共に生かしめられる生命の上に恵まれ、開かれてくるのではございませんか。その一つが、阿弥陀仏の本願の上で申しますならば、第三十三願に『触光柔軟(そくこうにゅうなん)』という願のある所以だと思います。『触光柔軟(そくこうにゅうなん)』とは、触光は光に触れ、そして柔軟と申しますのは、今まで我執の殻をかぶっておりましたそういうごつごつとした強張(こわば)った自我意識が、それが自ずと散ぜしめられてゆくということでありましょう。硬直した意識が思わず柔軟ならしめられてゆく。柔軟というのは同時に自在ということでございます。硬直して固まっておるものは動かぬ、柔軟な水にして方円の器に従うという自在性が現じます。そういう柔軟の心が真実の光にあうことによって恵まれてまいります。
親鸞聖人がその触光柔軟という事を『教行信証』の信の巻の中で、『真仏弟子』の釈に引用しておられるのであります。親鸞聖人は、ご自身の体験をそこに語られるには、必ずそれを仏様の言葉をもって裏付けておられます。これは、『教行信証』の構成である事は皆さんのよくご承知のところでありますが、真仏弟子というのは本当の仏のお弟子ということです。それは即ち、本願に生かされる金剛心の行人であると申され、そこへ第三十三願の『触光柔軟』の願を聖人はご引用になっておるのであります。これは、聖典をお持ちの皆さん方は、お帰りになりまして、真仏弟子の所を開いてごらんになりますとお分かりでございますが、私はそこに非常に深い意味が宿されておるのだと思います。
そこに、本当の念佛者の生きる姿がある、生活の輝きがある。こういう事を私どもに示しておいでになるのではございませんか。
それにつきまして、私はいつも思う事ですが、『御一代聞書』の中に、法敬坊が、『陰口を聞いて腹を立てる人があるが、自分はそのようには感じない、言い難い事は陰口でもよいから言って欲しい、それを聞いて改めたい』と言ったと記されています。これは、非常に広々とした心だと思うのです。柔軟な心とは、そんなものだとも思います。私どもは、自我意識の殻をかぶっておりますので、どうしても意地を張る。しかし、意地を張るというのは相手に自分の強さを見せようとするのでしょうが、それは自分を偉く見せるのではなく、最も醜いところを相手に暴露する仕種(しぐさ)となります。意地っ張りの人間というのは、誰もがみっともないなぁ、嫌だなあと感じる。しかし、意地張る人は、意地を張って自分を誇示せざるをえない。けれど、これは逆でございますね、これが愚かということでありましょうか。そのことを思いますと、法敬坊順誓の言葉には、実に意地のかけらもそこに見ることが出来ません。そして、そこに本当の人間の生きざまというようなものを私どもに示しておると感じるのであります。
人間は誰しも心を支えるものを持っている。これも味わって頂きたい事ですが、人間というものは、言わず語らず無意識の中に心の支点を持っているものです。支点とは、支え所です、それが即ちその人のスタンドポイントともなる。自分では気付きません。気付きませんけれども、何らかの支点の上に立ってものを言うている。あるいは、そこに感情を動かしておるのです。しかし悲しい事ですが、意地を張るのはこの支点が我執というものの上にある。その空しく怪しげなものを我識らず己の支え所にしている、その時に現れる悲しい姿であると申してよかろうと思うのですが、今、法敬坊順誓の心には、それがありません。<つづく>
昭和62年10月