真実の宗教C

井上善右衛門先生

<前回のつづきです。>

  迷いの闇が如来の真実によって照らされ開かれることを親鸞聖人は『光』という言葉で語られました。光は如来の智慧の働きを意味します。先に申しましたように、私どもは、生から切り離すことの出来ない死を切り離しまして、そこに己の生があるかのように思い、あるべからざる自己の幻に操られて、俺が俺がという主我意識とエゴを中心に生きざるをえない妄業を背負うております。我という殻に捉われるかぎり必ず対立が現れてくる。対立があれば必ずやそこには摩擦が起り葛藤や衝突が現れてきます。それは、私共の日常生活の上にも、また考えや思想という場においても、避けられないと思うのであります。そういう衝突が、私共の上に現れてまいると、必ずやそこに今度は混乱というものが招来されてくる。混乱が起れば、必ず苦悶せざるを得ない。そういう必然の結果が、私共の上に生じます。それでよいと済ませておくことが出来るかどうか、それはわれわれ自らの胸に問いただしてみるより外ありません。

  私共が現在只今、わが胸の内を顧みますとき、何か暗い心を感じない人があるでしょうか。暗い心の闇は、同時にわが命の闇であります。その命の闇を破って、明るみの世界をもたらして下さるそういう働きは、まことに光と申してよいのではありませんか。

  無論、命を照らす光と申しましても、それは私共のこの目で見るような光線でないことは申すまでもありません。けれども、闇を破るのは光だという事は、私どもが日常経験する誰もが知る事実です。ですから、ただ今私共の心の内を照らして、闇を明るみに転じる働き、私を超えた大いなるものの活動、それを光と仰ぐことは極自然な実感的表現だと言わざるをえません。その大いなる光の仏を讃えて親鸞聖人は、『尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)』、あるいは又、『不可思議光如来』と申されました。それは天親菩薩(てんじんぼさつ)と曇鸞大師(どんらんたいし)の言葉に依られたものです。その私の命の 底を照らして下さる光とは、生を照らすとともに死をも貫き照らして下さるところの光であります。

  一体、私どもの命とは、先程も申したように生と死とが相表裏しておるのが命、言葉を換えますならば、私共の生というのは、本来、死を抱き込んで成り立っている命です。従って私の命を照らすということは、生を包むとともに、死をも包んで照らし貫いているようなそういう光であります。死を照らすということは、どういう事かと言えば、死によって破られない、死によって消えない、死を貫いて輝くということです。そういう光こそ生死をつつむ永遠の光と申すべきであります。

  その光こそ、同時にそれが仏の御命として親鸞聖人は、『帰命無量寿如来(きみょうじゅにょらい)』とおっしゃった。ここに帰命とは私の命と一つになって下さっているということです。その御心を私ども、味わってみなければなりません。で、この世で尽きない寿、それが即ち如来の御命、その如来の無量寿に帰しまいらすよりほかに、人間が本当に生きる道はありません。その本当の自己の帰依処を恵まれたよろこびを法然上人は『生きなば念佛申すべし、死なば浄土へ参るべし』と讃じられました。このみ光にあった時に、今までのように生と死を分離対立させて、死が来れば生の総てが崩壊するような世界を超えしめられるのです。そして生と死を共に摂め取っている大いなる光の中の私の命を気付かせて頂くのであります。

  無量というのは、果てしないと言う意味にも解されましょうが、ただ果てしないと申しましても、いくら大きなものでも、どこかに限りがありましょう。今日、数がどんどん大きくなりましても、億から兆に、兆から京に移っていくか知りませんけれども、しかし数というものは何処かに限りを内に含んでおると感じられます。

  いま無量寿(むりょうじゅ)と言われるのは、ただ限りないというのではなく、最早量る世界を超えた、そういう言葉であると感じられるのであります。そういう無量寿に私共が出遭わせて頂きまして、初めて私共のただ今のこの命の真実の故郷と申しましょうか、忘れてしまっていた世界、今までは彷徨い出て迷いの枠の中に蟄居していた、そういう私共が、命の根源たる真の世界にたち戻らせて頂くそういう時が、そこに実現するのであります。

  よく信心というのを型にはまった状態の様に思いなしておられる方があるようですが、そう言う何かある条件にかなった様な状態ではなく、むしろ一切の条件から解きほぐされて、『解脱の光輪』と申されてあるような大いなる真実のみ光の前に裸になって立つことであります。即ち信心というのは、有限な私の命の上に、それ自らを顕わして下さる無量寿如来の御命に気付かせて頂くという事であり、そのとき、現在ただ今私の命に与えられているすべてのこと一切が、真の姿に立ち帰ることになって参るのであります。

  ですから、真実の世界というのは、無限の内容を宿すものです。感じるにも、語るにも、感じ切れない、言い尽くせないものがある。『見るたびごとに、新たである』と、よく妙好人の方が申しておられますが、『見るたびごとに新た』な意味と光がそこに現れ感じられるのでありましょう。

  限られた容器であるならば、ものを入れてゆけばやがて一杯になる。そういうものでありましょうけれども、信心はそういうものではないのであります。その信心の世界そのものが南無阿弥陀仏であり、そのものがお念佛そのものである。そこに、信であるとか行であるとか、人間の分別沙汰を介在せしめる余地もないのではございませんか。そういう思いが致します。そして、その生と死を包み生と死を貫く光たる御命に、私があわせて頂きますという事が、『南無阿弥陀仏の不思議なり』であります。<つづく>

昭和62年10月




[戻る]