真実の宗教B
井上善右衛門先生
<前回のつづきです。>私共人間は我知らず迷の業に押し流されておりまして、そこから人間の常識が生まれています。そして私どもの見ておる世界、私ども今相対しているこの世の中がすべてであると、こういう風に思い込んでおるのですが、しかし、これは深く省みなければならぬことであると思います。犬には犬の世界があり、蝉には蝉の世界があるように、人間には人間の業の中で形作っている世界がある。この謂わば、人間が自分勝手に作った世界の中で、私どもは現在生活をいたしているのです。
ところが我他彼此(がたぴし)の観念が、その人間の作った世界の意識に深く宿っているものですから、この中で私どもは迷える業の故に俺が俺がという自己中心の我執に捉われ、我執に捉われるが故に煩悩を起し、煩悩を起すが故に苦しまなければならぬという、こういう人間世界の現実像を現出しておるわけでありますが、こうした世界が決してすべてではございません。只今申しますように、謂わば人間が自分で作り出したものに過ぎません。それを私どもが、恰も総てであるかのように思い込んでおりますところに、真実世界に遇うことをさえぎっている人間的観念や常識の哀れさがあると感じます。ドイツにゲーテという文豪がございまして『ファウスト』という偉大な作品を残しておりますが、その中の一節に「人間という奴は、馬鹿げたちっぽけな世界に住みながら、それを恰も全体だと思い込んでおる愚かな奴だ」といって、悪魔が人間を嘲っておる。そういう場面が出て参ります。それは人間の持っている意識の本質を、ゲーテが抉(えぐ)っている言葉と言う感じが致すのであります。
人間が勝手に作り出して、それを当然の事柄としているものの一つに「生と死」の観念があります。これは人間にとって最も根本的なものです。
そもそもわれわれの生とは、どういう性質のものでしょうか。一般常識では、ある長さの生があって、それが終わった後に死が来ると思われている。だから若い人々は、死は未だ先のこと、もっと年寄りになってから死の事は考えれば良いと思います。しかし、生と死の関係はそんなものでしょうか。人間は年の順には死にません、一定の間、保証されているような生は何処にもないのです。今生きている生のどこをとってみても死の可能性につながっています。今元気な人が一瞬の交通事故で亡き人になる。生はそれ自体が本来的に有るものではなく、因縁によって成り立っているものといわねばなりません。そのような生の実態を忘れて切り離せない死を勝手に切り離しているのが生の常識だとすれば、そうした生の観念は架空なものだといわねばなりません。その虚像をつかんで生きていると、悲惨なことが起ります。その生がひとたび死にぶつかると、今までの生の営みのすべてが無意味なものになって崩壊するからです。何の為にあくせくと利を追って来たのか、他と争そってまで自己を主張して来たのか、自分自分と思っていたのは一体何であったのか。すべてが分からなくなって、真っ黒な疑問の淵に投げ出される、これは悲惨といわねばなりません。
その悲惨に直面するとき、われわれはきっと本来の自分を知りたい、気付きたいという切なる願いをもたずにはおられなくなるのです。しかし科学はそれに答えてはくれません。そのわれわれの切実な問いに、本当に答えてくれるものこそが真実の宗教であります。そこに人間の根本問題の解決の扉が開かれます。
さて、人間の心が体に捉われて奴隷になっております限りは、心もまた限られたものでしかありえません。けれども、ひとたび、私どもが心の心たる本性に立ち返ってみますと、身が限られておるようには、心は限られていないのです。心が身体のように有限な中に限られていないということはどういうことか。それを具体的にいえば、私どもが永遠なる真実の法を聞くことができるということになってまいるのであります。
人間の体に捉われた身心というものは、これは閉ざされたものであります。けれども真実というものは、決して閉ざされたものてはありません。常に開かれているのであります。常に開かれているということは、その真実が、すべてのものを摂め包んで、これを真実のいのちに同化する働きを持つということでありまして、これを仏教では、真如の妙用と言います。真如はまた一如とも法性とも言い表わされます。
さて真実なるものは必ず全体であります。全体であるということは、一切を包み、すべてを貫いているということです。この点は西洋の哲学者もはっきりと認めています。この真実そのものを一如とか法性(ほっしょう)と申すのですが、現代の言葉ではどう言えばよいか、これは難しうございますが、絶対界の何ものにも執われない究極的真実とでも申しましょうか。
その大いなる究極の真実が、先にも申しますように開かれていると言う事は、有限なこの私と無限なる真実とは次元が異なっているいるにもかかわらず、その次元の異なった真実の世界から、この私の上に通いの橋が架けられているということです。皆さんが親鸞聖人の教えを通じていつもお聞きになっている召喚の御声、阿弥陀仏のお呼び声ということは、取りも直さず、真実そのものが南無阿弥陀仏という呼び声になって、絶え間なく、私どもの上に通い働いておられるということであります。
ところが人間というものは、それに気付かず、俺か俺がと言う世界の中で、何か解決の工夫が見付かるような錯覚に執われまして、その矛盾の中で、私どもは永い間うろうろとしてまいった訳です。
明治の宗教界における先覚者であった清沢満之師が『宗教は自己を問い直すことから始まる』と。こういう言葉を残しておりますが、これは間違いのない言葉だと思います。真実の宗教は、己を問い直すことから始まる。問い直すことから始まるということは、問い直されなければならぬような己が此処にあるということでありましょう。それを今まで、私どもは問い直さずに、矛盾の中で、さ迷い続けてきたのであります。
この己を問い直すというところから、私どもには真実なるものを願い求めずにはおられない心が、自ずと開かれてまいるのであります。それは先程申し上げましたように、天地の究極の真実に私どもが抱かれており、包まれておりますが故に、その真実の働きを向こうから蒙る。そこに己自らを問い直すという心の起る所以もあると申すべきではありますまいか。
そのような大きなものに抱かれ促されている私どもでありますがために、身体と本能だけで生きておりますことに何か物足りなさと、頼りなさを感ぜずにはおられなくなるのではありませんか。もしそこにに何もなければ、私どもが現在生きておる姿に、自分自ら物足りない、侘しいというような感情は起る由がないと思うのです。有限な自己に止まっておられないということは、無限なるものに、この私がそれと気付かず促されている証拠ではございませんか。
かくて紆余曲折の道を通りながら、私どもは遂に大いなる真実に値遇(ちぐう)せざるをえない身となるのです。値遇とは親鸞聖人のお用いになった大変味わい深い言葉であります。何に値遇するのか、南無阿弥陀仏と呼びたまうておるその御名を通じて、大悲の仏心に値遇するのです。仏心の真実をこの身に確かと受け取らせていただくことであります。それによって如来の徳に浴し、如来の真実に通わせられる身となりうるのです。この大いなる真実に胸開かれることこそ真実の宗教の根本であります。<つづく>
昭和62年10月