真実の宗教A

井上善右衛門先生

<前回のつづきです。>

  それについて思い出す話がございます。伊賀の上野に油屋三左衛門という妙好人がおられた話を聞いたことがあります。この方が仏法を聞かれるようになった始まりでありますが、かいつまんで申しますと、彼は庄屋の家に生まれ、素性も正しく人柄も立派な、そういう方であったそうですが、そういう人であるだけに、人に後ろ指をさされるようなことほしないで、かつまた自分も損をしないように世の中を渡っていくのが、人間として利巧な生き方であると、そういうふうに思って日々の家業にいそしんでいたのですが、あるとき他所から家に戻って来て、自分の居間に入ろうと思ってふと見ると、見慣れない器に猫が頭を突っ込んで、がつがつと残飯を食べている。じっと目を据えて見ると驚いたことに、その猫の残飯の容器が、自分の大切にしておる、ある宗匠から頂いた抹茶茶碗であった。穏やかな三左衛門もカッとなり、声を荒げまして、誰がこんな馬鹿なことをしたのか、間違うにも程がある、容れ物が違うではないか、と怒鳴りつけました。

  常とは違った余りの剣幕に、誰もそこへ出てくるものがない。皆んな尻込みしてしまって引っ込んでいる。ところが、その庄屋さんの家に代々勤めておりました一人の爺やがありまして、いつも人に聞こえないようにお念仏を申しておった人だそうですが、その爺さんが、これは只ではすまないという気になって、三左衛門の前へ出てゆきまして、「旦那さま、大変申し訳ない事を致しました。何分この歳で目がかすんで、つい見分けが付かずに旦那さまの大切なお茶碗を、猫の残飯入れに致しましたのは、私めでございます。どうかこの老いぼれに免じてお赦しを願いとう存じます」と申しました。

  老人が頭を下げて頼みますから、それ以上の事は言えない。けれども三左衛門の怒りは治まりません。それで、「容れ物が違うではないか、いくら歳を取っても、それ位のことが分からんのか」と、余憤を残して自分の居間へ立ち去ろうとした時に、爺やは三左衛門の裾をつかまえまして「旦那さま、一寸お待ち下さい。私は今まで、いつかは一言旦那様に申し上げたいと思っておりました。けれども、何分無知文盲のことでございますので、何と申してよいか言葉を知りませんでした。ところが、只今旦那さまのお叱りを受けまして、それで、すっと言葉が分かりました。一言だけお聞き下さい。私は、先代のご主人以来、お屋敷で勤めさせて頂いて、この歳になりました。あなたさまは、小さい時からすくすくと育っておいでになったそのお姿も、よくよく存じ上げております。私どものようなものと違った、本当に利発な、立派な申し分のないお方でございます。けれども、毎日なすっておいでになることを見ると、その大切なお体にお入れになるものは、世間の義理と体裁とそろばんだけでございます。それでは容れる物が違っておりませんか」まあこんな風に申したのです。今し方容れ物違うではないかと叱られたのに対して、このことばを借りて、爺やが今のように言うたのだということが分るのですが、三左衛門はそのまま無言で部屋に入りました。

  それからしばらくすると、その家のお内儀に爺やを呼べと言われた。老人は、あんな失礼なことを思いがけず口にしたので、さぞかしこれで、この家からお暇がでることだろう、なつかしいこのお家屋も今日が最後だと思いながら、三左衛門の部屋の障子をあけて、頭を敷居につけて「何か御用事でございますか」と申すと、三左衛門は「今、お前は私に容れるものが違うではないかと言うた。その言葉が、わしの胸に突き刺さった。この間、村の寄り合いで夜更けて家に帰ろうとしたとき、ふと振り返ってみると、お月様がこうこうと昇っていた。そのお月様と自分と一人対一人になったときに、今まで感じたことのないような寂しさを感じた。わしはこれでよい、立派に生きておる。世間の義理を欠くこともなく、家を相続して、立派に生きておると思っていたのに、どうしてこんなに淋しいものが私の胸に湧き起こるのであろうかと考えながら家へ帰ったことがあったが、さきほどお前が、容れる物が違っておらぬかという言葉を聞いて、思わずビクッとした。もう少しそのところをわしに聞かせてくれないか」と、三左衛門が申したそうです。

  そのときに爺やが、はらはらと涙を落としながら「よう言うて下さいました。それこそ私の旦那様でございます。私が人間に生まれましたのは、何の為であるかということを、私は幸いに、お暇のある時にお寺へ詣らせて頂いて、親鸞聖人のみ教えを聞かせていただき、そのお陰で、何をこの身に容れる為に生まれてきたのかということを、ありがたく分からせて頂くようになりました」。こんなことを爺さんが語ったのです。それで三左衛門は「わしは今まで寺というところは、法事に集まる所か、葬式をする所か、そう思っていたが、そんなことを聞かせてくれる所か。では、今度お前が行く時に、わしを一緒につれていってくれ」と申しまして、それから、心から親鸞聖人の教えを聞かれる方になり、後には近郷近在に名の聞こえた妙好人になられたという話を、よほど前のことですが聞いたことがございます。

  かって白井成允先生が謙虚なご様子で申されたことがあります。「こんな事を言っては間違いでしょうか」と前置きされて、「人間というのは、外から見ると体、内側からみると心、それが人間というものではありませんか。ところが、その心を忘れて体に走る、そういうところに人間の間違いが始まるのではないでしょうか」と。そういうことをおっしゃったことがあります。

  何の気なしに聞いておりましたが、このごろ思いますのに、如何にも人間というものは、外から見ると体、内らから見れば心。たとえ体だけが生きておりましても、生ける屍という言葉があるように、もはや、それは人間とは言えない。その内ら側の心を忘れて外側の体に走ると、体と本能と欲望に生きることが生活だと思い込む、こういうことを言うておいでになったのだなと、この頃思い起こす次第であります。

  体というものは、先に申し上げたように、無常なものです。『維摩経(ゆいまきょう)』に語られているように「浮き雲の如く須臾(しゅゆ)に変滅する」存在として今あるのが私どもの身でございますが、その有限な体に心が捉われてしまい、体の奴隷となって心が操られる。こういうような状態に陥りますことが、永い永い生命の流れに宿る惰性となっているのでありまして、これが人間の「業」という命を流転させる力となり、われわれを押し流しているのが私ども人間の姿であると申してよいと思います。<つづく>

昭和62年10月




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