真実の宗教@
井上善右衛門先生
この度は『真実の宗教』と題させて頂いたのでありますが、宗教と言う言葉ほど皆の人が知っておる言葉はございません。ところが同時に、真実の宗教とは何かということほど、また明確さを欠いでいるものはない。そういう感じが致すのです。 それで先ず、宗教の命となる最も根本問題はどこにあるのか、いかなる問題に対して、いかなる道を辿るべきなのか。その点を私ども深く心に確かめておくことが何より必要なことだと思うのであります。
さて、私ども人間と生まれてましたものにとりまして、一番大切なこと、最も尊重すべきことは何でありましょうか。この問題が解決しない限り、生きておりましても、何か物足らぬ、どこか侘しく不安な思いを脱しえぬものであります。現代人は科学で事足ると思っておりますが、偽らぬ心の底は、満たされていないのが実情ではありませんか。それは、人間が人間としての、本当の底の願いを充たしていないところから起ってくることであると申してよいかと思うのであります。
よく現代の青年たちが、口に致します生き甲斐ということ、この問題も帰するところ、只今申したことに深く関わってくる事柄なのでありますが、この点は一般に忘れられているのではないかと思います。ただ生き甲斐、生き甲斐という言葉だけが空しく叫ばれているようです。本当の生き甲斐を私ども全うしようと思えば、やはり只今申しました人間の究極の願い、即ち私どもにとって最も尊重すべきことがらに私どもの心が開かれ、満たされるのでなければ、果たされない問題ではないかと思います。
私どもは申すまでもなく、体を持って生きております。これはなんと申しましても、否定することのできない私どもの最も直接的な現実のすがたであります。この体には、ご承知の様に本能というものが宿っています。もし私どもが、この体と本能とが結び付いておるところの、唯それだけの生き物であるとすれば、体で生きて本能を満足させれば、それで事済む筈でありますけれども、然し事実私どもが、体と本能だけで生きておりましても、人間というものは決してそれで本当の落ち着きに達することも出来なければ、心の満足に到達することも出来ない。これは私ども自身に当ててみればわかることであります。そう致しますと人間というものは、ただ単に体と本能だけで生きておるのではないという証拠が、そこに見えてくるのではないかと思うのであります。
私の近所に70幾歳になられる。仏法にはご縁のない、しかも富んで豊かな、そういう老婦人がおられました。大変気さくな人でして、思ったことを何でも率直に言われる。まあ、こういう点では非常に愛すべきひとなのですが、こんな話をされたそうです。『だんだん歳をとってくる、よく生きてもあと10年余りでしょう。そう思うと、生きている間に出来るだけ楽しんで、残ったいのちを生きようと思うんだけれども、それがなかなか思うようにゆかない。以前には、閑のある身になれば、旅行でもして思う存分楽しんでみようと思ったこともあったけれど、今になってみると、少し歩くと腰が痛くって旅行も億劫な気がする。そしたら、一日、テレビでも見ておればよさそうなものだけれど、それもまた飽きがくる。それで、仕方がない、思う存分なことをして気を晴らしてやろうと思って、夜、目がさめると、夜中でもかまわない、台所で好きな物を作って食べてみる。しかしこれも続かない。それで今年の夏は何をしようかと思ったけれども、することがない。それでお金には不自由がないのだから、自分の面白いと思う好みの服地をいろいろ求めて、夏、女性の着る簡易服ですか、ああいうものを十着ほど作ってみた。それを一つ一つ毎日着替えて着ておったけれども、然し一通り着たらもう飽きがきた。誰かに上げるより仕方がない』まあそういうような話をされたそうです。
その話を聞きまして、そういう言葉の底に、何か言い切れぬもの、満たされない淋しさ、そういうものがまざまざと浸み漂っておるような感じがしたのであります。
私ども人間の常識では、体と本能と欲求で生きておると思っておりますから、思う存分欲望を満足させ、楽しむだけ楽しんで生きるのが、一番幸せな生き方だと、或いはそれを生き甲斐と思っておられる方も多いかと思いますが、それは、お金に少し不自由でもして、そう出来たらなあと思うときの夢みたいなものではございませんか。実際に閑あり、お金もあって、思う存分なことをしてみようと思ったときに、只今申しますような現実の悲哀というものに、私どもは突当たるのではございませんか。
私ども人間は、自分と言うものをごまかすことなく、有りのままに突当たるものに突当たってみるということが、人間として生まれました最も大切なことに、気付く所以だと思います。もし常識で考えますように、この体というものが私どものすべてであるならば、人間というものは結局、果敢い存在であるといわざるを得ません。人間の体というものは、限りあるものであり、その限られた現実の姿というものが、私どもの目の前に必ずや現れ出てくる。
それが老病死という誰にも避けることのできない出来事です。人間は病まざるを得ない、老いざるを得ない。今日お集まりの皆様方は、老いというものを、いろいろな角度から経験をしておいでになる方が多いと思いますが、私も60代のときはそれほどにも思いませんでした。70歳を越え80に近付いてまいりますと、老いということが思われる。若いとき年老いた方から『若い人はいいなあ』とよく言われました。けれども、なにが好いのかわからずにおりました。ところが今になってみると、若い人はよいなあ、と言う思いが、思わず私の胸に湧き起こってまいるのですが、それだけ老いというものの実態が、身に沁みてきたと言うことは、あらそえないことであります。
そして最後に私どもを待ち受けておるものは、申すまでもなく『死』ということでございます。これは否応無しに私どもの上にやってまいります。今日お集まりの皆さん、お友達、今から10年したら何人おみえになりましょうか。そう考えますと、人間というものは、その日その日をぼんやりと暮らしておりますけれども、振り返ってみますと肉体としての、この私の行く手というものは寂しいものではございませんか。そういう身体だけをすべてとして、これにしがみついて生きておるということは、これは情けない哀れなすがたといわざるを得ないと思います。
『維摩経』の方便品の最初のところに、維摩居士が言葉を極めて、私どもが体に期待しておることの愚かさをいろいろな言葉で語り誡めております。身と言うものは幻のようなものである。身体というものは陽炎(かげろう)のようなものである。泡のようなものである。すみやかに朽ちるの法なり、たのむべからず。そういう言葉が出てまいりますが確かに私ども歳を取りまして、素直に自分自身をみつめてみますと、この言葉、私どもの胸に響かざるを得ない真実性を宿しておると申さざるを得ません。
『大無量寿経』には「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっきょどくらい)」と言われています。独り来って独り去り、独り生まれて独り死んでいく。そういう私どもの体の現実は、その通りでございますが、では体というものは、空しいもの、つまらないもの、厭うべきもの、として捨て去る気持ちになってそれでよいのであろうか。『維摩経』の「問疾品」のところに、「身の無常を説いて、身を厭離することを説かざれ」という言葉が出てまいります。身というものは無常である。このことはどうしても、確かと我が身の現実として見詰めねばならぬことである。だからと言って体を厭い嫌う、そういうことを説くべきではない。もし厭離するなら、この身を否定する厭世観となり、人間にとって大切なものまで捨て去ることになるからです。ではわれわれはこの我が身を如何に尊重し、如何に扱うべきでありましょうか。<つづく>
昭和62年10月