色即是空―花は野にあるように
青山俊董老尼
侘び茶道を大成された利休さまの命日・利休忌にはまず茶を献じ、次に「廻り花」といって、三重切りの花入れに皆で交替にお花を入れて手向ける。秋の如心斎天然宗匠の忌日には「花寄せ」といって、花の品数が多い秋に相応しく、たくさんの花入れに銘々が一瓶ずつ入れて手向ける。
この「廻り花」や「花寄せ」を、どんな心構えで行ったらよいかを、時の大徳寺の無学和尚は、「色即是空擬思量即背」――色即是空、思量(しりょう)を擬(ぎ)すれば即ち背(そむ)く――の賛をもって示された。「色即是空」のあとへ「空即是色」の語を補って読むべきものであろう。
利休さまの師の武野紹鴎(たけのじょうおう)は、侘び茶の心として『新古今集』の中の定家卿の歌、
見わたせば花も紅葉もなかりけりをとりあげ、書院台子の華やかな茶から次第に詫び茶へと、余分なものを捨て去って無一物へときわまる姿を理想として説いている。
浦の苫屋の秋の夕ぐれ
それに対し利休さまは「今一首見出したり」といって藤原家隆の、花をのみまつらん人に山里のの歌をあげ、無一物の雪間よりいかにも青やかなる草がホツホツと萌え出してくるように「力をも加えずに真なる所のある道理」を茶の理想とされた。
雪間の草の春を見せばや
紹鴎の茶の心は「色即是空」であり、利休さまの心は、「空即是色」でといってよいのではないかと思う。『般若心経』の中の「色即是空」「空即是色」はあまりにも有名な言葉である。
この「色即是空」の心を詠じた句に、骸骨のうへ粧(よそおひ)て花見かなというのがあり、「空即是色」の心を詠じたものに、舎利子見よ空即是色花ざかりというのがある。「舎利子」というのは、「舎利弗(ほつ)よ」というお釈迦様の親しい呼びかけの言葉と思えばよい。『般若心経』はお釈迦様の十大弟子の一人で、智慧第一といわれた舎利弗尊者に語りかけるという形で説かれたものであるから。「色」は具体的姿を持ったものを指し、「空」はその背景となっている働き、生命、つまり天地いっぱいのお働き(仏性とも呼ぶ)をいただいて、一輪の花も咲き、蝶も舞い、私もあなたもかくあらしめているというのである。目に見え、手にふれる表面的なものだけに心をとらわれてはいけないよ、その天地いっぱいの命の働きを常に、一つの視界の中におさめておきなさい、というのである。
利休さまは茶花の入れようを「花は野にあるように」と示された。「野にあるように」とは法爾自然(ほうにじねん)の天地よりの授かりの姿をそのままに大切にして、活け手のおもわくを、煩悩を、私心をさしはさむな、というのである。そこを無学和尚は「思量を擬すれば即ち背く」と示されたのである。
よく人々に「お花の入れ方を教えてくれ」といわれる。私は答える。「花に聞きなさい。お花の言葉を聞き、それに無心についていけばいいのよ。私がうまく活けてやろう、などという妄念をおこしては駄目。お花の生命と、活け手の生命が一つに融けあっておのずから成る花でなければならないのね」と。