残り時間ゼロを生きるー葬式は生と死を問う場

青山俊董老尼

残り時間ゼロを
    ひたぶるに
        生きし君の
声せつせつと
    吾をゆさぶる

これは、今年(平成11年)8月19日、直腸癌で世を去られた鈴木格禅老師に捧げた弔歌である。格禅老師は大正15年に愛知県に生まれられ、生涯、沢木興道老師を慕い、随身し、その生き方に習われてか、寺を持たず、大学の教壇に立たれるときも、ヨーロッパの修道院での生活も、いかなるときも、黒染の法衣を身からはなされなかった。

平成9年3月大学を退官され、ようやく大学にしばられることもなく全国を参禅指導に講演にまわっていただけると期待していた矢先の癌の宣告、それは大学退官1年目の6月のこと。それから1年2ヶ月。残り時間ゼロを言い渡されて8ヶ月.。末期癌の激痛に堪えながら、最後の最後まで、笑顔と諧謔(かいぎゃく、ユーモア)を忘れず、北は北海道から南は九州まで、座禅と禅の教えのお話をしつづけられ、古武士の風格をとどめた禅僧らしい禅僧と惜しまれつつ73歳の生涯を閉じられた。

「健康な者にとって"死"は単なる観念にすぎない。ワシにとっては眼前の事実。生死厳頭に立ってみないと気付かないこと、見えてこないこと、それを一人でも多くの人に伝えてゆきたい!」 一言一言を語り、遺言を聞く、そんな気迫につつまれた座禅会が老師のゆく先々に展開されての1年あまりであった。

考えてみるに、残り時間ゼロの命を生きるということにおいては何も格禅老師一人ではなく、命をいただいている者すべての姿なのである。私の知人は元気で朝「行ってきます」と家を出て、5分後、交通事故で亡くなってしまった。禅の集いに参加された一人の婦人は、自己紹介の席で「念願かなってこの集いに参加でき、ほんとうによかったと思います。ありがとうございました」と深深と頭を下げ、マイクを次の方に渡すと同時にくずれるようにして倒れて、そのまま息を引き取られた。生きているということは、つねに死と背中あわせ、誰一人として一瞬あとの命の保証はない。ただ気付いていないだけのこと。気付こうとしないだけのこと。

お釈迦さまに「四馬(しめ)」の教えがある。 第一は、鞭影(べんえい)、つまり御者(ぎょしゃ)がふりあげた鞭(むち)の影を見ただけで走り出す馬で、これがもっとも良い馬だという。第二は、鞭が毛の先に触れてから走り出す馬、第三は、肉にさわってから走り出す馬、第四は、骨身に徹しないと走り出さない馬で、これは駑馬(どば、にぶい馬)だという。いったい何を云おうとされているのか。

第一の駿馬(しゅんめ)に当たる人というのは、たとえば遠い村や町で亡くなった人があるという便りを聞いて、わがことと受け止め、うかうかしておれんわいと立ちあがることができる人を指すという。第二は、自分の村や町で亡くなった人のあることを知り、わがことと立ちあがる人、第三は、自分の親兄弟、つまり親族にお迎えがきてようやく気付くひと、最後の四番目、骨身に徹しないと走り出さない馬というのは、自分自身が迎えに来られて初めて気づく人のことをいう。しかし自分が迎えに来られてからでは遅い。

葬式の意味もここにあると思う。お葬式を会葬する人々は、この中の三つの部類に入る方々といえよう。第三の親族、第二の同じ町内、第一の他の町村からの縁者と。お釈迦さまはつねに「わが身にひき比べて」とさとされる。いかなることも自分の身に引き当てて考えよというのである。

棺の中に納められた死者の姿を目の当たりにして、私の明日の姿といただき、わずかに与えられた今日一日、今のひとときをどう生きるべきかを真剣に問う。待った無しの死を目前にして、今日只今の生のあるべき姿を問う。これが葬式におけるもっとも大切なことではなかろうかと思うことである。

死を忘れたら生もボケる。普段うかうかと聞きおとしていた死の足音を、お迎えの人の呼び声を、耳を澄まして聞くとき、生の意味を考えるとき、これが葬式の大きな意義の一つであろうと思う。




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