正信と盲信の違いー冷厳な智慧の裏打ちあってこそ

青山俊董老尼

孫を膝に乗せたおばあちゃんが、可愛らしい“もみじ”のような手を合わせて、礼拝(らいはい)させている光景を、よく見かける。 「孫がナムは南無と書くことを発見し、“おばあちゃん、どうして南が無いの?”と聞かれて、あわててしまいましてね」と駆け込んで来たおばあちゃんがあった。大人達は分からないままに疑問にも思わずに過ごしてしまっていることを、子供は新鮮な感度で「なぜ?どうして?」と、大人達に質問を投げかけ、大人達をたじろがせたり、ハッと気付かせたりするものである。

南無は南が無いのではなく、梵語つまりインド古代の雅語(がご)の音を写したもので、帰依、帰命(きみょう)、帰投、帰礼(きらい)、信従(しんじゅう)などと訳されている。従って「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、同じ言葉を梵語と漢訳を重複させてお唱えしている事になる。これを梵漢兼挙(ぼんかんけんこ)という。

「南無とは帰依帰投と訳し、幼な子がその母の膝に依るが如し」と解説した方がおられた。仏への信のあり方を、幼な子が一点の疑いも無く信じ切って、その母の胸に安らう姿にたとえられたものである。絶対の信であり、無条件の信であり、例えとしては分かりやすいが、間違ってはならない一点、はっきりと違う一点があり、そこがうっかりすると悪用されかねないところでもある。一点を明確にしておかねばならない。

親が子に対する信、あるいは子が親に対する信は、本能的なものであり盲目的なものである。それはそれなりに貴い意味を持っているが、神や仏に対する信、宗教的信は盲目的であってはならない。

今から1400年前に、聖徳太子は十七条憲法の中で「篤く三宝を敬え」と宣(の)べておられる。三宝とは仏法僧のこと。仏とは覚者と訳し、天地宇宙の真理、道理にめざめた人のこと、法とはその真理を人間の言葉を借りて説き出したもの、それを文字に托したものが経である。僧は梵語の僧伽(さんが)の略で和合衆と訳され、真理に目覚めた仏を信じ、その教えに随順して生きようとする仲間達を意味する。極めて冷厳な智慧の眼で、天地宇宙の真理を追究し、それによって生きるべき人の道を見極め、それに、目覚めた人と、その教えと、それによって生きようとする仲間達を、択(えら)びつくした果てに、間違い無しと信じてついて行く、それが「南無」という姿であり、三宝に帰依するということである。

正しい宗教の信の背景には、きわめて客観的な醒め切った智慧の眼が光っていることを忘れてはならない。「信とは澄浄(ちょうじょう)の義なり」といわれるゆえんである。のぼせ上がることではない。何でも熱心に信ずればよいというのではない。智慧の裏打ちのない信は、たちまち迷信、邪信の餌食(えじき)となり、「宗教は阿片なり」の言葉通り、とりかえしのつかないことになってしまうことを忘れてはならない。




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