どこに視点を置くか

青山俊董老尼

お釈迦様は、「やがて死すべきものの、今、命あるはあり難し」とおっしゃっておられるが、「死すべきもの」だから、「今、命ある」ことが、たとえようもなく嬉しいことであり、有り難いことなのである。死ぬことがなかったら、生きていることは当たり前となり、当たり前となったところに、生きていることの感動はない。

精一杯に生きる日が
もう一日
与えられているとは、
なんと幸せなことだろう
アントニー・デ・メロのこの詩に出会ったとき、わたしはギクリとした。そしてわが身を省みた。デ・メロは1931年にインドのボンベイに生まれ。55歳で世を去ったカトリックの神父である。その生涯の中身の濃さを思うとき、デ・メロの年齢をはるかに越えてしまった自分の人生の、中身の薄さを恥ずかしく思った。無常を見詰める目の深さが、そのまま人生を見る目の深さとなり、生きざまとなるのであろう。

みな健康で長生きをと願うが、病むからよいのであり、無常だから、死があるからよいという世界への開眼(かいげん)のほうが、どれほど大切であることを忘れてはならないと思う。

アントニー・ロ・メロの詩を紹介し、無常を見詰める目の深さが、人生を見詰める目の深さとなり、生き様となることを学んだ。もう一つの生きざまを、この詩から学んでおきたい。

一日与えられた命に対し、「もう一日しかない」という受け止めと、「もう一日ある」という受け止めとでは、生きる姿勢に天地の隔たりがあり、おのずからそこに展開する世界も異なってくるということである。「もう一日しかない」というときの目は。失ってしまった方に注がれており、そこに広がる世界は、消極的、絶望的な暗いものでしかない。

たった一日の命さえ、「もう一日ある」といえるその言葉からは、よろこびのひびきさえ感じられ、その目は積極的に残された方へ注がれ、そこに展開する世界は、明るく希望に満ちたものとさえなる。

たとえばコップに注がれた一杯のジュースにしても、「もうこれっきりない」という見方と、「まだこれだけある」という見方では心の姿勢も、生き方も、そしておのずからそこに展開する世界もちがってくる。

重度の障害を背負って生きねばならない子供を持ったお母さんにお会いしたことがある。そのお母さんは明るくわが子の「出来ること」「出来るようになったこと」だけを数えあげて、嬉しそうに語ってくれた。

「Kちゃんの笑顔は仏さまみたいで、心が洗われます」「Kちゃんのお返事、とっても素敵なんです。ニコッとしながらハイッと答えてくれるその声を聞いただけで、心のモヤモヤがふっとんでしまいます」「Kちゃん、絵が好きで。じょうずなんですよ」という具合に。

ほとんどなにも出来ない、というよりも手がかかりどおしのわが子のなかから、出来ることだけを見つけ出し、わがこととしてよろこぶ母の姿に、わたしは涙して合掌し、わたしもすべての人に対してそうありたいと自戒したことである。

「随人観美」という言葉がある。だれしも長所をもっている。だれしも美しいものを持っている。それを見つけ出して、生かしてゆこう、というほどの意味であろうか。

私は数年の間、ある雑誌の扉に、花とそれにちなんだ随筆を連載していた。信州の野の花を活けては写真に撮ってもらうのであるが、わたしはそのたびにカメラマンに、やかましく「この角度から撮ってくれ」と、一瓶の花のもっとも美しいと思われる角度からの撮影をお願いした。すべてにわたってその様な視点の置き方が出来たらと思うことである。




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