全部いただく
青山俊董老尼
沢木興道老師の言葉に「全部いただく、えり食いはせぬ」という一句がある。簡単な言葉ではあるが、実行となると生涯かけても出来かねる言葉である。
先ずは食事のえり食いからはじめて、人のえり食いをする。あの人は好き、この人は嫌いと。これはいちばん難しいことかも知れない。その人の顔を見ただけで腹が立つ、その人が部屋に入ってきただけで憂鬱になる、というように、人の好き嫌いは理屈ではなく感情だから始末がわるい。どんな人にも同じように平らかな心で、ということは至難なことであろう。
次は、あの仕事はいいけれどこの仕事はつまらない、と仕事のえり食いをし、また、場所のえり食いをする。さらには人生のしあわせ、ふしあわせをえり食いし、人生のどんづまりへ来て、せめてコロッと逝きたいと、死に方のえり食いをする。
生涯、追ったり逃げたり、えり食いの七転八倒のなかで、えり食いをしていることにも気付かずに、えり食いのゆえにいっそう苦しみを深めながら、一生を終えてゆく。これがわれわれの大方の人生である。それらを一切やめて、どんなことにも『授かり(さずかり)』と戴いてゆけというのである。
石川県の松任(まっとう)市のH寺へお話に行った。H寺は、もともとは天台宗として開創されたが、鎌倉期、この地に罪人として流されてこられた親鸞聖人のお人柄に感化され、浄土真宗の寺へと改めたのだという。H寺に聞法のために集まってきておられた門徒の方々の信心の深さにも、頭がさ下がるばかりであった。
常識的に考えて、流される側にとっては、流罪地(るざいち)などいいところでないに決まっている。受け入れる側にしても罪人として流されてくる人だから、よくないというレッテルを張りたくなる。
たとえ罪人という名がつけられようと、その人が“ほんもの”であり、すばらしければそれでよいのであり、その人のおられるところ、その人の行かれるところ、どこでも“そこ”がよいところとなるのである。駄目なところなど、はじめからないのである。
お釈迦様の言葉に次のようなのがある。
村の中に
森の中に
はた海に
はた陸(おか)に
阿羅漢(こころあるもの)
住みとどまらんに
なべてみな楽土なり駄目なところにするかしないかは、そこに住む人の生きざま一つにかかっていることに改めて思いをいたし、「全部いただく、えり食いはせぬ」の言葉に親鸞聖人の生きざまを重ねて、いっそうの味わいを深めさせていただいたことである。