角を拝む

青山俊董老尼

四月、新しく入堂してきた修行僧たちに、わたしはこんな話をした。

「庭づくりの奥義(おうぎ)は、上流に角ばった石をつかい、下流になるほど丸い石を使うということだそうです。修業道場の眼目は、大部屋生活の中にあって"我(が)"という角をとる修行、無我になる修行であろうと思います。

もって生まれた性格もちがい、経験もちがい、立場も年齢もちがうお互いが、朝から晩まで同じ部屋に生活し、同じ仕事をするということは、並大抵のことではありません。俗にいう『蓼(たで)食う虫も好きずき』で、理屈抜きに気のあう人もあるし、顔を見ただけで腹が立ってくる人もありましょう。意見がぶつかり合うこともある。そこで常に心に深く受けとめ、念じつづけて欲しいことは、『水になる修行、無我になる修行』ということです。

水と氷は一つのものですが、氷と凝り固まると、どんな器にも入れられるというものではなく、無理して入れようとすると両方が傷付きます。私達凡夫は、ぶつかると、相手に角があったから、相手が氷だからと、相手を非難します。しかし片方が水ならばぶつかりません。ぶつかった限りは両方ともが氷だった証拠です。ぶつかることによって『わたしに角があったんだな』と気付かしていただくことが大切です。さらに『相手の人の角のお陰で、私の角に気付かしていただくことが出来て、ありがたかったな』と、相手の角を拝むことが出来たら、もっとすばらしいですね。そのとき氷が水にとけた時と言えるのでしょう」

昔は子どもも大勢で、しかも三世代が同居するという生活のあり様が多かった。その中でお互いに心を運びあい、遠慮しあい、ときにはぶつかり、傷つけあい、また傷をあたためあいながら生活するなかで、自然に角がとれた、まろやかな、しかも忍耐強い人間を育てあげていった。

一人っ子、個室、核家族という今日のあり様の中で、角をとることもなく、角のあることさえも気付かず、エゴイズムの芽を伸ばしたいだけ伸ばして育ってしまった子ども達の行く末は、どうなることであろう、と案ぜられてならない。




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