災難を転ずる

青山俊董老尼

病気になった、愛しい人を失った、事故にあった、入試に失敗したなどなど・・・・。人間は弱いもので、災難に遭うとその原因を自分自身のなかに見つけないで、他に探す。世に霊感者などと呼ばれる人や、宗教のところへ行って見てもらったりする。

「先祖のなかで供養されていない霊がいて、それが災いしている」とか「水子の霊がたたっている」とか言われ、供養してくださいと言って訪ねて来る人がある。こんなのは穏やかなほうで、ひどい例になると、「因縁切りだ」「先祖供養だ」といって何十万円も請求されたり、おかしなものを買わされたりする。そういう人に私は言葉を強めて言う。
「ご先祖が子孫の不幸を願って、たたるはずがないじゃありませんか」災難には、不慮の災難ということもある。

インドで救ライの父と呼ばれた宮崎松記(みやざきまつのり)博士のような徳を積まれた方でも、飛行機事故のため熱砂の砂漠に生涯を終えなけれならないことだってある。それをなんの因縁だと、因縁づけることで迷いをいっそう深める。

災難には、冷静に考えれば、自業自得で、自分から招いたものも少なくない。それらを先祖の責任へと転嫁しないこと。それは単なる気休めであり、ごまかしであり、そこからなんの解決も与えられない。

もう一つ、しっかり心にとどめておいてほしいことがある。供養するのはよい。 「ただし、『たたってもらいたくないための供養』などという、条件付きの供養はしないことです。これは先祖への供養ではなく『たたってもらいたくない、不幸になりたくない、しあわせになりたい』というあなたの欲へ供養しているだけのことです。 立場をかえて考えてごらんなさい。『これを差し上げるかわりにこういうことをして下さい』と誰かに言われたら、あなたは嬉しいですか。それは取引きであって、供養でもなんでもありません。先祖供養はけっこう、ただし無条件に、純粋に報恩のためだけの供養をしなさい。災難は、先祖や水子の責任とせず、私の責任のもとに受け止め、更には、その災難のゆえに、こんな世界に気付かせて頂くことが出来てありがたかったと、災難を肥料と転じて花咲かせる道こそ、学ぶべきでしょう」

病いが
また一つの世界を
ひらいてくれた

咲く
これは坂村真民先生の詩である。死ぬほどの大病も何度かされ、失明同然になられたこともある先生が、その苦しみを通して今まで気付かなかった世界に気付き、見えていなかった世界が見えるようになって有難いと、病気を南無と拝んでおられる。

先祖供養のためにお経を読んでいただくのも結構。しかしお経というのは「いかに生きるべきか」が説かれているのであるから、坂村先生のような生き方ができたとき、生きたお経を、この体で読むことができたといえるときであり、これこそほんとうの先祖供養というべきであろう。




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