今が本番
青山俊董老尼
「そのうち」
そのうち お金がたまったらわたしもいつの間にか還暦の峠を越え、人生最後の仕上げの旅となった。近頃この詩は、あらためてみずからに問い掛ける厳しい詩ともなった。
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子供が手を放れたら
そのうち 仕事が落ちついたら
そのうち 時間のゆとりができたら
そのうち・・・・・
そのうち・・・・・
そのうち・・・・・と、
できない理由を
くりかしているうちに
結局は何もやらなかった
空しい人生の幕がおりて
頭の上に 淋しい墓標が立つ
そのうちそのうち
日が暮れる
いまきたこの道
かえれない (相田みつを)道元禅師は「切に思うことはかならず遂ぐるなり」とおおせられ、さらに「切に思う心をおこすためには無常を思え」と、たたみかけて示されておられる。「無常を思え」とは「明日の命はないと思え」ということである。いや「今だけの命」かもしれない。一瞬の命さえだれも保証されていない。まして明日、明後日、来年の命の保証をだれができよう。それなのにわたしたちはずっと生きておられるような錯覚のなかで、なにも今日しなくても明日がある。なにも今回の機会を無理してつかまなくても、またという機会がある、という思いのなかで、はてしなく今をとり逃しつづけている。
十余年、癌とともに生きたS尼が、とうとう帰らぬ旅に立たれた。健康な人よりはるかに多くの仕事をやりとげて。「明日の朝を迎えることができないかもしれない」という思いから、S尼は、その日の仕事はかならずその日にかたづけた。深夜におよんでも。体中手術のあとだらけ、いつ救急車のお世話にならなければならないかもしれないという体で。部屋の隅には最後の日の身支度と病院ゆきの荷物が、つねに準備されてあった。
坐禅をする機会、仏の教えや禅の話を聞く機会も逃さじと参加され、「今回かぎりかもしれないから」と全身を耳にして聞き、茶の湯や活け花の行事さえ、「これがわたしの最後の会となると思うから」と、心を込めて勤められた。無常を思う心が深いほど、死を見つめる目が厳しいほど、切に思い、切に求める心は強くなり、おのずから聞く耳も開ける。「今回かぎり」と思うから、聞く耳が開くのである。「また聞ける」と思ったら、一生聞けぬ。いつかという日は、ついに訪れないであろう。
東井義雄先生の言葉に、「今が本番、今日が本番、今年こそが本番。明日がある、明後日があると思っている間は、なんにもありはしない。肝心な今さえないんだから」というのがある。
今の一瞬に命をかける。その一瞬の連続が生涯となる、そんな生きざまをこそ、と願うのであるが・・・・。