三つの宝
青山俊董老尼
◎宗教は天地悠久の真理
先日、名古屋駅から尼僧堂にまいるべくタクシーに乗りましたところ、運転手さんが私の顔を穴のあくほどのぞきこんで「坊主やってんですか」と悪いことをとがめる強い口調でおっしゃいました。
そこで私も思わず厳しい口調で「坊主は職業じゃない」と言いながら、また「私は宗教が大嫌いです。宗教なんて人間がつくり出したものでしょう。そんなものに縛られたくない」と言いますので、私は次のように話しました。
「宗教は人間がつくったものではない。ないところから人間がつくり出したものなら、どんなにお釈迦さまがご立派でも、二千五百年前、二千年前という歴史的制約や、インド、イスラエルという地理的制約から一歩も出ることは出来ないでしょう。見つけ出そうと、見つけ出すまいとに関わらず行われている天地悠久の真理を、お釈迦様が見つけ出した。あるいは、キリストさまが発見した。真理は一つだけれど、見つけ出した人が違うから違った名前をつけ、違った性格を与えただけのことであって、真理がいくつもあったのでは困る」。
この天地がいつできたかわかりませんが、地球の歴史だけでも四十六億年と言われています。その間に地球は沢山のいのちを育みました。やがて人類が現れたのが、ようやく四十五万年前、文化らしきものをもったのはほんの一万年前です。いわば新参者の人類が、見つけ出そうと出すまいとに関わらず、脈々と続いてきた天地の真理。それが宗教の一番もとになっているのです。◎仏法、仏教、仏道
インドでは真理のことを「ダルマ」と呼び、それが中国では「法」と訳されました。そして、この天地悠久の真理をお釈迦様が見つけ出したから、「法」の上に「仏」をつけて、仏法という言葉が出来ました。また、お釈迦様が「天地はこうなっている。私どものいのちはこのように生かされている。だから、その天地の道理に随順して、今、ここをこう生きていこうじゃないか」とお説きくださり、そこに教えが生まれた。それが「仏教」です。さらに、それを毎日の生活の中での実践道としてとらえたときに「仏道」となります。
うっかりいたしますと、宗教というものを人間がつくり出したもののように思うことがありますが、そうではありません。宗教は天地悠久の真理そのものであり、ないところから人間がつくり出したものではない。それが、まず押さえておきたい大事なことです。
そんな話をいたしましたら、その運転手さんが「実は、私は北海道の寺の息子で・・・・・」と言い出すので、びっくりいたしました。少なくとも、二千五百年という歳月を相続されてきたということは、仏教の教えそのものが本物の証拠です。ただし、長い年月の間には垢もつく。その垢だけの部分を見て、寺のあり方に反発し、飛び出してしまった。もったいない話です。しかし、「もっと早くにこの話を聞いていたら、俺も坊主になっていたかな」と言うので、「今からでも遅くない!」と一冊の本を渡してタクシーを降りたことです。◎三宝を拠り所として
では、今回のテーマであります「われら何に依るべきか」ということ、つまり私どもは何を幸せと考え、何を拠り所とし、何を生きがいとしているのかと、まず問うてみたいと思います。名誉や権力、肩書きを拠り所とする人もいるかも知れません。あるいは、財産や配偶者、子供を拠り所としている人もいるでしょう。しかし、そういうものは必ずどこかで消えてしまいます。ですから道元禅師はそれを「水沫砲煙の類」、要するに、うたかたのようなものだとおっしゃり、最後に依るべきものは三宝、つまり「仏」「法」「僧」であるとお説きになりました。この「仏法僧」というのは、仏教の根本をなす考え方です。
まずはじめの「仏」、これは、私達が今ここに生きているのは自分一人の力ではなく、天地一杯のおはたらきのおかげだという真理を示しています。たとえば、太陽と地球の距離は一億五千万キロと言われていますが、これが少しでも近ければ地球上の生物は暑くて生きていけません。また、遠くても寒くていのちはないでしょう。ちょうどよい距離にバランスがとれているおかげで生きていられます。そして、その太陽と地球の引力のバランスを保ちえている背景には、太陽系惑星相互のバランスが、さらにはその背景には他の銀河系惑星達とのバランスがあります。つまり、宇宙総力をあげての働きのおかげで私達が今こうして生きていられるのです。
たとえばそのように、私たちを生かしてくれている天地いっぱいのおはたらきがある。それを何とか名前をつけて呼びたい。子供が母親を慕って呼ぶように、私たちのいのちを生かしてくれている無限のおはたらきを拝みたい。その願いに応じて象徴的に描き出されたのが「仏」です。私どもはどこかに偶像のような仏さまがいて見張っているように思いますが、そうではないんですね。「仏」にはいくつかの意味がありますが、基本的にはこの天地いっぱいのおはたらきを名づけて「仏」と言います。◎三宝の三つの見方
少し難しくなりますが、三宝についてもう少し詳しくお話したいと思います。これには三つの見方があります。まず、天地悠久の真理そのものを仏・法・僧の三つの角度から見たのが「一体三宝」です。次に「仏」を歴史的人物であるお釈迦様ととらえ、「法」はお釈迦様の説く教え、「僧」はお釈迦様の教えに従って修道生活をした仲間達と見る。これが歴史上の三宝で、「現前(げんぜん)三宝」と言います。
三つ目が「住持三宝」です。「住持」とは「法に住し、法を護持する」という意味です。住持三宝の「仏」は仏像、「法」は経典、「僧」は和合衆と訳して仏道を志す仲間達と言えましょう。
私たちは形に現して拝みたいという心情をもっています。そこで、天地悠久の真理、天地いっぱいのおはたらきを人の姿を借りて表現した。それが仏像です。また、天地悠久の道理を人間の言葉で説き、文字に託されたものがお経です。さらに、お釈迦様がどんなにすばらしい教えをお説きになっても、教えは一人歩きいたしません。玄奘三蔵法師がいのちがけで砂漠を越えて経典を伝えたように、また、鑑真和尚が荒海を越えて仏法を伝えたように、人の背に背負われてはじめて生きた教えとして伝わっていきます。そうして二千五百年もの間、人格から人格へと相伝しながら、仏様の教えを私たちの手元までお届けくださった限りない多くの方々、それが「住持三宝」の僧なのです。◎こぶしを合掌の変える
これを分かりやすく説明してみましょう。私が11年前の還暦を迎えたとき、還暦を人生の二度目の旅立ちにたとえて、「よし、やるぞ」と、次のような歌をつくりました。還暦の、峠を越えて、新たなる、また旅立ちを、するぞ嬉しきしばらくして老人クラブでこの話をいたしましたら、音楽の仕事に携わっている方がこの歌に曲をつけてくれました。それを楽譜で送ってくださったのですが、音楽の素養のない私には、楽譜を見ただけではどんな曲なのかが分かりません。困りまして、人に歌ったり弾いてもらったりして、やっと見当がつきました。
これは大事なことです。作曲家がいて名曲を作曲しても、私のようなものにはどんな名曲なのかが分かりません。ところが、そんな私でも生演奏に出会うと「素晴らしい曲だ」とわかり、感動出来ます。これは、次のように置き換えることもできるのではないでしょうか。
お釈迦様という世に類のない方がお出ましになり、法をお説きくださいました。ここでお釈迦様を作曲家にたとえるなら、説き示されたお言葉、即ち経典は楽譜にあたるでしょう。しかし、私が楽譜を読めないように、経典の言葉も「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)」ではさっぱりわかりませんね。ですから、私のおしゃべりは楽譜の解説にあたります。
そして、先程お話しましたように、たくさんの祖師方のお陰で、お釈迦様の教えは師から弟子へ、人格から人格へと相伝されてきました。これが生演奏にあたるでしょう。生演奏するところにはいのちが与えらます。そして、いのちといのちがぶつかりあうところには感動があります。ですから、私も微力ながら生演奏に加わらせていただきたいと思います。そして、皆様も生演奏に加わっていただきたいのです。
では、私達が実践できる生演奏とは一体何なのか。それはたとえば、今ここでニコッと笑うことです。目を吊り上げることをやめて、ほほえみに変えましょう。こぶしを振り上げることをやめて、合掌に変えましょう。それが生演奏です。日々の暮らしの中で、一つでもいい、住持三宝のお仲間として、出来ることから実践していきましょう、ということです。◎師と教えと友と
さて、道元さまはさらに三宝について、次のようにおっしゃいました。「仏はこれ大師なるがゆえに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧は勝友なるがゆえに帰依す」大師とは大いなる師ということで、仏を師匠に、法=教えを良薬にたとえています。野山を歩いていて転びそうになったとき、慌ててつかんだ草が萱(かや)であったなら、その手を傷つけてしまうように、人生の旅路の中で不用意につかんでしまった教えが間違ったものだったら、一生を台無しにしてしまいます。そのように間違った教えをつかんではならない、ということです。また、勝友とは良き友ということで、これも大事なことですね。
出会いは人生の宝と申しますが、私たちも、よき師、よき教え、よき友に出会うことで、たった一度の人生を悔いのないものにしたいものです。つまり、最後の拠り所は師と教えと友。そういうことですね。お金でも名誉でもありません。毎日の生活の中で仏様におたずねして、引っ張っていただきながら、お友達に支えていただき、押していただきながら、今、ここを歩む。そして、一歩でも、少しでもよい生演奏をさせていただこうと願いながら生きさせていただく。そうすることによって、人生の本当の生き方が確立できるのだと思います。