大人(おとな)

青山俊董老尼

ひきもきらずやってくる人生相談を通して気付くことは、年齢や肉体ばかりは大人でも精神的には全く子供のままという、似非(えせ、にせものと言う意味)大人の急増である。

二十歳になったから成人とは限らない。肉体が一人前になったから成人とは限らない。精神的に成熟しなければ、たとえ四十歳になろうと五十歳になろうと子供であり、しかも肉体的欲求だけは一人前に成長するから、もっと始末が悪い。

そういう似非大人が結婚するから二人の間がうまく調整出来ず、成田離婚などという言葉に象徴されるような事態が起きたり、自分のことさえ始末できない精神的子供が子供を産むから、子供に振り回されてノイローゼになってしまったりする。

子供は自分のことしか考えない。自分のああしたい、こうしたい、ああして欲しい、こうして欲しいという自己中心の思いがかなえられないと、道路の真ん中であろうと、ところかまわずわめき、自分の願いを通そうとする。

結婚して間も無いという一人の女性が、人生相談に来た。夫が愛してくれない、あれをしてくれない、これをしてくれない、こんなはずじゃなかった等など、してくれないことばかりを並べ立てた。私は尋ねた。
「あなたは、ご主人を真剣に愛し、ご主人がこうして欲しいと思われるように勤めておられますか?」 その女性は首を振りながら、「愛してもいなければ、自分からは何もしていない」と答えた。私は言った。
「それじゃ五分五分じゃないの?ご主人を責める資格は、あなたにないですよ。あなたね、立場を替えて考えてごらん。もしあなたが男で、あなたのような、愛してもくれない、何もしてくれない人を妻にもらったら、かわいいと思えるだろうか。少しばかり持っていた愛さえ、消えてしまうのではなかろうか。
ご主人を責める前にまずあなたがご主人を愛し、ご主人になすべきことを精一杯勤めてごらんになることですね。ご自分がして欲しいと思う事はご主人もしてほしいことなのです。あなたが愛してほしかったら、ご主人もあなたに愛してもらいたいのです。自分をためしとして、まずご主人につくせるだけつくしてみて下さい。相談はそれからです」と。

ご主人の立場に立ったら、お姑さんの側になってみたら、私のような母親をもった子供の立場に立ったら、と相手の立場に立って考えられる人を大人というのである。




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