子供が親を育てる

青山俊董老尼

先日、拾いましたタクシーが女性ドライバーでございました。乗ったとたんに、とても明るい声で、ご挨拶が飛び込んできました。その方が、「私、母子家庭なんです。子供が生まれて1年で、事情あって主人と別れました。この子が一人前になったときに、誇れる母であらねばと思い、毎日を心して生きさせてもらっています。もし、子供がなかったら、私は堕落していたかもしれません。親として、毎日の自分を大切に慎んで生きられることを、子供のお陰と拝んで生きております」と語りかけてきました。うれしくて、私は思わず、この運転手さんとおしゃべりをしてしまいました。

また、かつて教えたお茶の生徒ですが、三人の子供のいる方からの手紙に、このような言葉がありました。
「三人ともに、それぞれ違った性格を持っている。その子たちを育てていくにあたり、育児は、育自と気づかせてもらいました」。子育ては、私自身を育てることであったというのです。

秋田出身のジャーナリストで、教育関係の本を多くお書きになっておられる、むのたけじと言う方がいらっしゃいますが、次のようなことをいっておられます。

おとなが学べば子どもも必ず学ぶ。それが
"しつける"という動詞なのだ。
大人が学ばずに、子どもだけに学ばせようというところに現代の悲劇がある、そのようなことをおっしゃっていたように記憶しております。まず、自分の姿勢を正すことが、何よりも大事なことであろうと思います。

松本の和田のご出身で、のちに東京にお出になりました方に、窪田空穂(くぼたうつぼ)と言う歌人がおります。

三界の首枷(くびかせ)といふ子を持ちて
心定まれりわが首枷よ
「子は三界の首枷」という諺がございます。「三界」は、仏教の専門語でございますが、凡夫人間の住む世界というように申し上げたらよいでしょうか。その凡夫の私どもの「首枷」というのは、子どものお陰で融通がつかない、自由がきかない、つまり、子どもに縛られてという一面です。でも、そのお陰で親としての自分の姿勢が決まり、気ままにしたい私が、子どものお陰で親として姿勢を正すことができると、子どもを拝む姿がこの歌に出ております。

以前ご紹介した東井義雄先生が、私の寺にお越しになりましたとき、お話の中に、こういう一言がありました。「子どもこそ、大人の親ぞ」。初めはよくわかりませんでしたが、なるほど子どものお陰で、親としての姿勢を正すことができる。そういう姿ですね。

私は普段、名古屋の尼僧の修行道場に、修行僧たちとともに起き伏しをしているわけでございます。しかしながら、講演が多かったり、原稿を書くことも多かったり、人生相談もあり、修行僧たちよりもハードな仕事がぎっしりつまっております。夜も遅くまで起きて、何とかせねばなりません。寝る時間を、非常に短縮せざるを得ない毎日になるわけです。
朝は、四時から坐禅です。夜の一時に寝ようが、二時に寝ようが、四時からの坐禅には起きなくてはなりません。私の身のまわりのお世話を通して修行する行者(あんじゃ)という役の者が、四時に「おはようございます」と入ってきて、お布団を畳んでくれたり、着替えの手伝いをしてくれます。そして洗面を済ませ、お袈裟を着付けて坐禅堂に行きますと、修行僧たちが既に坐禅の単(たん)に座っております。

まず、坐禅堂のご本尊である文殊菩薩に参拝をいたします。心の底からのお礼の気持ちです。わがままのきく寺におりましたら、「夕べは遅かった。過労がちだから」と、おそらく寝坊していただろうと思います。修行道場に置いていただくお陰で、サボれずに、今日も坊さんらしい第一歩から始めさせていただけます。それから坐禅をしている雲水たちの前を検単(けんたん)といって、ずっと回ります。心からのお礼の思いを込めて、「あなたがたのお陰で、怠け者の私が、今日もどうやら坊さんらしい坐禅の第一歩から始めさせてもらえた。ありがとう」と合掌して回るんですね。

あるいは接心と言って、朝四時から夜九時までの通しの坐禅がいく日も続いたり、或いは午前午後、提唱という講義があります。前もって準備している暇もないものですから、夜九時までの坐禅が終わりますと、翌日の三時間の講義の準備をせねばならない。私どもの講義は、ほとんど漢文でございますが、読めないものも講義せねばならないお陰で、一生懸命に取組ませてもらえます。修行僧たちのお陰で勉強させてもらえます。修行僧たちは私に育ててもらっていると思うかも知れませんが、実は、私が修行僧たちに育てていただいているのです。しみじみとそう思い、雲水たちをいつも拝んでいるのです。先生の先生は生徒なんだ、教師は生徒たちを先生と拝みながら、自分の姿勢を正していく。これが先生と呼ばれる人のとるべき姿勢であろう、と気付かせてもらったことです。

明治から大正にかけて、室生犀星などとともに活躍した、山村暮鳥という詩人のこんな詩があります。

よくよくみると
その瞳の中には
黄金の小さな阿弥陀様が
ちらちらうつっているようだ
玲子よ
千草よ
とうちゃんと呼んでくれるか
自分は恥じる
子ども達がその澄んだ瞳で、こちらをしっかりと見据えて、「とうちゃん」、「かあちゃん」と呼んでくれる。その瞳をまっすぐに受けて立てるような、毎日の生き方であり得たかと自分を振り返るときに、恥ずかしい自分の生き方でしかなく、その心に応え得るだけの自分ではない毎日。「とうちゃん」と呼ばれる自分を恥じて、勘弁してくれと、姿勢を限りなく正しながら生きようという誓願の姿が、親としての姿ではないでしょうか。その中で初めて、本当の意味での健全な子育ても出来るのではないかと思います。




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