"さいわいに"と受けて立つ
青山俊董老尼
人生という一枚の着物の一針には、いろいろな一針がある。予定通りにはいかない。こんなはずではなかったということも起きてくる。そのいかなることも"さいわいにと受けとめてゆく"という生きざまを、もう一つ心に刻んでおきたい。
K寺でお話をするべく京都駅からタクシーに乗った。「ご出家さんですね。お話をさせていただいてもよろしゅうございますか」と運転手さんが語りかけてきたので、「どうぞ」というと、こんな話をしてくれた。
「私は高校三年のとき、両親を一緒に亡くしました。町会でフグを食べにゆきその毒に当たって一晩で亡くなりました。その朝はお弁当をいただいてゆく日で、いつもなら母が早く起きてお弁当を作って下さるのにその朝はいつまで経っても物音一つしない。おかしいなと思い、そっと両親の部屋の戸を開けてみると、さんざん苦しんだあとを残して、二人とも息が絶えておりました。
親戚の者が駆けつけ葬式は出してくれました。借金こそなかったけれど、一銭の貯えもありませんでした。父が出征していたために、ずっと年の離れて五歳の妹がおりました。子供二人では家賃がとりたてられないであろうというので、家主が追い出しました。私は妹を連れ、最小限度の荷物を持って、安い六畳一部屋のアパートを借りて出ました。とにかく両親に代わってこの妹を育てなければならない、と思いまして、私は働きました。さいわい就職が決まっておりましたので、朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトと働き、二十二、三歳のときには、小さなアパートを買うほどの金はつくりました。しかし考えて見ますとこの間私は働くことしか考えず、台所も掃除も洗濯も何もしませんでした。五歳の妹が全部したことになります。「おしん」というドラマがありましたね。おしんさんは別じゃありません。私の妹だってやりました。人間、そういうところにおかれるとやるもんですね。
考えて見ますと、私などもし両親が生きていてくれたら、今頃、暴走族か突っ張り族かろくな人間にしかなっていなかったと思います。両親が死んでくれても、財産を遺してくれたら、甘えてしまって 今の私はなかったと思います。一人ぼっちだったらやはり駄目になっていたでしょう。両親が死んだ、金はない、家主が追い出した、幼い妹がいる。私は本気にならざるを得ませんでした。私を本気にしてくれ、男にしてくれ、大人にしてくれたのは、両親が一緒に死んでくれたお陰、財産を遺してくれなかったお陰、家主が追い出してくれたお陰、幼い妹をつけてくれたお陰と感謝しております。
妹には勉強机ぐらい買ってやりたいと思いましたが、六畳一部屋に食卓と勉強机と二つおいては寝る場所がなくなるので、食卓と勉強机を兼ねてもらいました。新聞一枚散らかしておいても寝るところがなくなりますから、妹は整理の名人になりました。今幸いに大きな家に御縁を頂いて嫁いでおりますが、きれいに整頓されております。
妹がよい御縁を頂いて花嫁衣裳を着たときだけは泣けました。両親に見せたかったと思いましてね。何もかもありがたいことであったと、朝晩に両親の位牌にお線香をあげさせてもらっています」
どんな方のお話よりもすばらしいお話を聞く思いで、「よいお話をありがとう」と、私は心からの礼を述べて車を降りた。
私が好んでサインする言葉の一つに投げられたところで起きる小法師かなというのがある、起き上がり小法師(こぼし)は、どこにほうり投げられても、たとえば泥んこやごみための中であろうと、コロンと起き上がり、そこに腰をすえる。ちょうどそのように、授かった場所や授かったことが、わが心にかなうことであろうとなかろうと、追わず逃げず、そこを正念場として、そこに腰をすえる。むしろ"ようこそ"と受けて立ち、"さいわいに"と勤め上げてゆけというのである。人生という一枚の着物のどんな一針に対してもそんな姿勢で運びたいものと、切に思うことである。