人生に無駄はないー寂聴尼との対談から

青山俊董老尼

平成3年の初冬、週刊誌『女性自身』の正月号特集のために、瀬戸内寂聴さんと対談した。
紅葉が緑の苔に映える美しい嵯峨野の寂庵で、対談は思わず3時間に及んだ。対談の中で特に心に残っていることがある。

たまたま話が学生時代のこととなった。私は駒沢大学の仏教学部に学んだのであるが、当時は仏教学部というとお寺の御曹司が多く、当然のことながら寺に生まれたばかりに寺を継がねばならないという"おしきせ"にはなかなか熱が入らず、学部全体の雰囲気が何となくなまぬるい。教授陣の授業も物足りない。若気のいたりの生意気さも加わり、「仏教は学問の対象として扱うべきものではない。生きざまそれ自身だ」などともっともらしい理由をならべて、大学院は文学を専攻した。

「文学部へいってみて、"しまった!まちがっていた!"と気付きました」といったとたんに寂聴さんが、
「何故まちがっていましたか?」
と、間髪を入れずの質問がとんだ。今こそは一応出家の姿をとっていても、文学の道に命をかけてきた人の、まさに真底からの叫びであり、問いであった。
「文学は遊びです。救いは宗教にしかありません」
たった一言であったが、私は自信を持って答えた。寂聴さんは一言もないといったおももちで深く頷かれた。

対談を終えての帰り道、小倉山にかかる月をあおぎながら、しみじみと思った。「どんな経験も無駄というものはないものだ」と。もし私が、仏教学部のあり方に反発して文学にそれていなかったら「どんなに文学が楽しく、意味あり気に見えても遂に遊びであり、最後の救いは宗教にしかない。いま自分の目の前に展開している仏教界の姿がいかがあろうと、それはどうでもよい。本来の姿を見つめ、今の仏教界のありようが形骸化していたら、その中に私が熱い血を注ぎこめばよいじゃないか。今の坊さんのありようがいかがあろうと、仏教本来のすばらしさ、お釈迦様の教えのすばらしさに変わりはない。よし!やりなおそう!」と気づくことが出来たのは、そむいて外へ出てみたおかげである。

山を出なければ山の姿を見ることができないように、外の世界へそれたおかげで自分のあるべきように気付くことができ、また、それたおかげで、文学の世界につかりきって、出家しつつも出家の世界にはいりきれていない寂聴さんを、たった一言で納得させることができたのだ。

「それてみることもいいことだ。人生に無駄はない。どんな経験も、その経験を無駄にするかしないかは、その人のその後の生き方にかかっている」と、あらためて思ったことである。




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