照らされて知るわが姿−2−
青山俊董老尼
今年のお勅題『水』によせて、こんな歌をつくった。
つかの間のきらめきながら、とこしえの
光やどして水の流るる
大きい波、小さい波、高い波、低い波、怒涛の如く激しくぶつかっては砕け散る波、眠るが如く穏やかな波。波にさまざまあるけれど、どの波もそのつかの間の命に、月影という、太陽の光という、とこしえの光を宿し、きらめき、めくるめいて消えてゆく。私も授かったこの命、その中たとえ一日でも良い、少しでも法にかなった生き方がしたい、そんな願いをこめて作ったのがこの歌である。
長さよりも中身が大切、どう生きたかが大切ということで、忘れられないお話がある。
ある研修会に講師として招かれ、三日間を過ごした。もう一人の講師で、日頃から敬慕申し上げて来た米沢英雄先生が、休憩時間のひととき、煎茶茶碗を手で囲むように持ちながら、こんな話をして下さった。
『私の孫はね、運動がからっきし駄目なんですよ。走り競争してもいつもビリッコでしてね。この間の幼稚園の運動会でも、やっぱりビリッコを走っていたそうです。途中で孫の前を走っていた子供が転んだんだそうです。そしたら孫の奴、転んだ友達が起き上がって走り出すのを待っていてやって、まためでたくビリッコになったんですよ。親も親で、そのことを喜んで話してくれましてね。ハハ・・・・・・』
さも嬉しそうに話して下さったおじいちゃん先生の笑顔が、今も私の心に焼きついて離れない。人を蹴飛ばしてでも、先へ出ようとする人の多い今の世の中で、『あんた馬鹿ね!転んだのを幸いに追い抜いてゆけばみじめなビリッコの思いをしなくてもすんだんじゃないの!』と言いかねない親の多い中で、そのあたたかく、汚れなく、純なる心をそっと大切に見守り育ててやろうとしていて下さる御両親やおじいちゃんの姿は、転んだ子供が起き上がるのを待っていてやるお孫さんの姿と共に、さながら天寿国曼荼羅を見る思いで、なんともうれしいきわみである。
一般世間のモノサシは、たとえばマラソンならいかに早く走るとか、いかに能率よく仕事が出来るかというところにあるけれど、別のモノサシもあると思う。
ウサギと亀が走り競争をしたという昔話がある。亀がウサギに勝ったというけれど、どんなに走っても、ふつうに走ったら亀がウサギに勝てるはずはない。ウサギが怠けて昼寝していたから、亀が勝つことが出来たのである。
そのことにどれだけの努力を払ったかというモノサシで測れば、ビリッコの亀が一番ということになり、それが仏のモノサシというものではないだろうか。一番二番という序列や結果よりも、その中身に何が盛られているかということのほうが大切、その過程が大切ということではないだろうか。一番二番より素晴らしいビリッコもあるということではなかろうか。