照らされて知るわが姿−1−

青山俊董老尼

『高校1年の息子が、悪性腫瘍で足を切断しなければならなくなりました!そのあとも何年生きられるか分からないと言うんです。先生、どうしたらいいんでしょう!』
一人の母親が顔色を変えて飛び込んで来て涙ながらにこう叫んだ。私はとっさの答えに窮した。どの言葉を持ってきても力なく空々しく、この母子を力づける何一つの言葉も見付からないままに、しばらく沈痛な時間が流れた。ようやく勇気を奮い起こして、しかし、つぶやくように、自分に言って聞かせるように、私はこう言った。

『お母さん、昔の人がこんなことを言っております。「人生の目的は長生きをすることではなくて、良く生きることだ」とね。そしてまた、私の友人が、この間こんな手紙をくれました。「私に高校に行っている二人の子供がいます。二人ともツッパリ族で困っておりましたところ、私が不治の病気で倒れたことがきっかけとなって目が醒め、今は二人協力して私を助け、家を守り、学校の勉強にも励んでくれています。病気になったお陰で二人の子供が立ち直ってくれることが出来、むしろ病気に感謝しております」
恵まれすぎて目が見えず、一生つっぱりで生き、周囲に迷惑かけての80年90年の人生を生きるよりも、たとえ30年20年の命でも、真実の生き様にめざめ、少しでも道にかなった生き方をする人生の方が素晴らしい人生なんだということですね。
少し厳しすぎる修行ですけれど、どうしょうもない病気にかかったのを善知識と思って、親子して真剣に、生かされている命の姿というものを見つめ、生きるとはいったいどういうことなのかと、命がけで取り組んでみて下さい』

苦し紛れにこう答え、さらに思い出して『法句経』の一節を書いて渡した。

人もし生くること
百年(ももとせ)ならんとも
おこたりにふけり
はげみ少なければ
かたき精進(はげみ)に
ふるいたつものの
一日生くるにも
およばざるなり

人類の文化の歴史は、いかにして楽をしながら欲を満足させるか、いかにして長生きすかのための苦闘の歴史といってもよい一面を持っている。 そんな人生の生への執着に対して、この『法句経』の言葉や『人生の目的は、長く生きることではなくて、良く生きることだ』と言う言葉は、なんという厳しい言葉だろうか。

昔から言われている言葉に『世の中には、なくてはならぬ人といてもいなくてもどっちでもよい人と、いないほうがよい人と三種類ある』というのがある。極端な言い方であるが、たとえばなくてはならぬ人が一日いるのと、いないほうがよい、いることで人々が迷惑するような人が百年いるのと、どちらが価値あることか。ただしこれは他人に向かって言う言葉ではない。吾と我が身に向かって言う言葉ではあるが、要するに、どう生きるかが問題なのである。道元禅師も、

『いたずらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり。悲しむべき形態なり。たとい百歳の日月は、声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生をも度取すべきなり』(正法眼蔵)とさとしておられる。

『声色の奴婢と馳走す』とは、眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい)の人間の主体の六根に対する色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)の六境のことで、見たい、聞きたい、食べたい、欲しい、惜しいの諸欲が主人公の座に坐り、その欲を満足させるために、この私が欲望の奴隷となって一生を空しく費やしてしまうことである。

そういう歳月を百年生きるより、たった一日でよい、道に目覚め、道に従って生きる方が、どれほど尊いかしれないというのである。たとえ万劫千生の生死を繰り返そうと、凡夫の思いを先としての流転輪廻ならば、永劫に解脱の見込みはない。

その中、たとえ瞬時でもまことの教えに出会い、方向転換することが出来たら、生々世々の真の幸せである。それを『百歳の佗生をも度取すべきなり』と道元禅師はおおせられたのである。




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