信いたるところとどこおらず
真実の信心あるところ、いかなる障害も、心の惑いも、とどこおり無く、自在に生きて行けるのです。
仏教にしても、キリスト教にしても、その教えに心底帰依出来たら、その時から霧が晴れた様に、何
の迷いも無くなり、何も恐れるものがなくなり、自由自在、天下無敵の生活が開けます。
ただ、『宗教は阿片だ、麻薬だ』と言う見解もありますように、一歩間違いますと、宗教の怖い面とし
て、狂信・盲信から邪教とかオカルトと呼ばれる宗教ではない教えを説くエ一代教祖にはまり込んでし
まう事もあります。最近では、オウム真理教がその例です。事実殺人まで犯してしまうものです。ま
た極最近では、法の華、三宝行でしょう。正しい教えと邪教とを見分けられる知識を持たねばなりま
せん。その見分け方は、排他的ではない事、そして執拗なお金の要求をされない事、新しい仲間を勧
誘させられ無い事、入会脱会が自由である事、すべてが満たされている事です。一つでも欠けていれ
ば、疑うべきと考えて欲しいと思います。
一方、信心が開けると言う事は、凡夫の心を翻して神仏に自然と頭が下がる様になる事を言い、無条
件にひれ伏さざるを得ない心になる事であり、これはもう悟りの世界に入ったと言う事であります。
浴びる程、教えに関する講話を聞いたり、本を読んだり、座禅等の修行も積んで、日常生活で色々と
体験して自然と、ある瞬間心が転換するものと思います。