慈しみ、汝がその胸に、徹るまで、悲しみ堪えて、立たす佛(いつくしみ、ながそのむねに、とおるまで、かなしみたえて、たたす、みほとけ)
私達は、何時でも佛様に背中を向けて生活していますが、佛様は、そんな私達を見捨てられる事なく、
常に抱き取り、慈悲の眼で見守り続けていて下さるのです。
仏教の尊いお話しを聞いても、キリスト教の聖書を読んでも、それはその時だけで、日常生活に戻っ
てしまえば、自分の欲望を満たす事に必死、しかし欲が満たされる事もなく、常に不満の人生を歩み
勝ちです。これを凡夫(ぼんぶ)と言いますが、こんな凡夫でも、佛様(心の奥底にある善の心)は
見捨てる事無く、目覚めさせる努力を惜しまず、慈悲の心で待っていてくれます。
親鸞上人の悪人正機(悪人こそ仏様の慈悲の対象だと言う)の考え方を唄にしたものと解釈できます。
丁度、どうしようもない悪い子を持つ母親が、何れはこの子はきっと目覚めてくれると、じっと母親
の愛情で見守り続ける、そんな状況に近いと思います。