本願真実

井上善右衛門先生

「他力本願《という言葉を大新聞が確定した用語であるかのように、卑しい依頼心の代吊詞として用いているのをみると、言い知れぬ上快な情けなさを感じる。 本願という言葉の厳(おごそ)かな宗教的意味に対する余りにも軽卒な無知を責めたくもなり、また権威ある新聞が恥を知るべしとも言いたくなるのであるが、しかし新聞用語というものはマスコミの常として、 最も時の社会に効果的に通用しアピールする言葉を用いるものであることも忘れてはならぬ。何がこの言葉をして、かくも意気地なき依頼心の代吊詞たらしめたのであろう。それは世の誤解というよりも、 最も厳しく真宗念仏者の責任として反省されるべきところである。

世間は語られる言葉や理屈を聞いているのではなく、直接の生活行動そのものを肌で感じ取るものである。ここに教義や説明では動かせない直接的な印象が刻み込まれる。 それは誤解であると説明して拭い去られるようなものではない。おうよそ我々の体験する人間関係というものは、常にそうした仕方をもって互いにそれ自体を告げ知らしている。 如何に自己を弁護し説明しようとも、それは相手の受け取った印象を改めさせるに足るものではない。因果が刻まれてゆくというのはこのような実態そのものが作用する消すことのできぬ働きなのである。 この事を思うとそぞろ恐ろしさを感ぜずにはおられない。

学解(学問的理解或は知的理解と云う意味)というものはややもすると、こうした実態から遊離して脳裏の画餅(がべい;役に立たないもの)となる。世にいういわゆる哲学はしばらく措(お)くとして、真宗の学問がこのような画餅となれば、それはただ無力というだけでなく、 教えそのものを冒瀆する悲しい結果ともなるであろう。学問は決して信心の画を描くものであってはならぬ。それはどこまでも生きた信を追及するものでなければならない。 即ち学問は信体験そのものにことわりの光りを与えて信心の筋道を明らかにし、それを通して信の道案内となる使命をもっている。

さて本願というのは、天地宇宙の真実心が我々の無明の心をそのままにしておくことが出来ないところから現れ起こったものである。しかし本願は一方通行的な働きとして作用するのではない。 我々の心に新しい目ざめを促し、真実なるものに向わしめる働きとして顕われる。言い換えると我々の能動的な心を通して作用する。今日の言葉でいえば、主体性を媒介として働くのである。

依頼心というのは自からは動くことなく、他人の力を期待して欲する結果だけを我が物にしようとするものであるから、本願真実の働きかけとはまさに天地懸隔(てんちけんかく;天と地程に懸け離れていること)である。 もともと安易につく依頼心というものは、個我に執じる利己心から生じるのであって、それは我執の発動する一つの姿であり、仏教ではこれを懈怠(けたい)という煩悩におさめている。 本願はもともとこのような無明煩悩の渦中(かちゅう)にある我々を捨てておくことのできぬ悲心の躍動に外ならぬのであるから、その依頼心をこそ気付かせて、その迷いより脱出せしめようとする悲願なのである。 しかるに本願を依頼心の対象にするとは何と云いう悲しい錯誤であろうか。親の涙をよそに、己れの煩悩をつのる業に外ならない。 本願の生起本末(しょうきほんまつ;起きた訳と結果)を聞く時、その悲心の旨を承って、我々は先ず煩悩にさ迷う己(おの)が心に気づかしめられる。自らのさ迷にきづかしめられるものは、決して安然と己がさ迷いの闇に腰を据えていることは出来ないであろう。 それが本願に促されるということであり、己が心の働きとなって本願が作用する所以である。

さ迷いの渦中にある己れが、まさしく如来の大悲心を領受する正機(しょうき;仏の教えや救いを受ける資質をもつ人々)として誓われていることに目覚めるとき、どうして感激せずにおられようか。一切衆生を摂取する本願が予めあって、それに自分が当てはまるというのではない。 如何ともなし難い堕獄必定(だごくひつじょう)の自分のために発起された本願と知らしめられる。それが値遇(ちぐう;本来なら遇えるはずがない相手に稀な縁によって遇うこと)である。 「親鸞一人がためなりけり《という叫びとなって現れている。そのとき淤泥(おでい)の中に蓮華を見るような勿体なき上思議に、慚愧(ざんき)と勇躍(ゆうやく)の心(信仰を得たときの喜びの表現)が自然ときざすであろう。 ここには最早、我れ成しえたりというような心は起こるにも起しようがない。

『涅槃経』に阿闍世が、その開かれた目ざめの上思議を仰いで、「我が心の『無根の信』《と嘆じているのがそれであろう。 無根にして、しかも成就される信の目覚めはこれを他力と仰ぐ外はない。他力とは本願力に値遇したものの告白である。 されば祖聖は「他力とは如来の本願力なり《とのたもうている。従って他力は、本願力に値遇する信体験の場を離れて語られるべきものではないであろう。

本願力の信心を卑屈な奴隷信仰と評する人があるが、それは仏法というものを知らぬ言葉である。信心とは本願に隷属す人となる事ではない。『聞書』に「南無阿弥陀仏の主となるなり《といわれてあるごとく、 南無阿弥陀仏という絶対力に生きる人となることである。神の支配に従う信仰と、無量寿無量光に生きる信心とを混同してはならない。

本願においては、機に目覚めることと法に目覚めることとが常に一つである。機を知らしめつつ法に近づけ、法を仰がしめて機に目覚めしめるのである。機に目覚めて法に値遇するのを信心という。 それはあたかも瞳と瞳が刹那に触れ合うに喩えられよう。たとえ本願の文字を聞き知っていても、瞳と瞳の触れ合わぬのは値遇ではない。出会いながらも空しくすれ違うて行き過ぎるに等しいのである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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